テーマ なぜ『般若心経』をあげない?(7号)

1999(平成11)年7月1日


表紙

▼このお経は、わが国でも、最も知られたお経のひとつで、数多い般若経典の肝心なところを、わずか二百六十二文字で説かれた中身の濃いお経として普及しています。しかし、真宗ではこのお経は読誦しません。なぜなら、親鸞聖人の教えに適わないからです。「般若心経」は、菩薩の智恵(般若)を得て、仏のさとりに近づく自力の実践行のすすめだからです。したがって

「いずれの行もおよびがたき身」『歎異抄』(真宗聖典627頁)

という親鸞聖人のお言葉に導かれて、いっさいの自力の行を積むことの出来ない、私たち凡夫のために救わずにはおれないという阿弥陀如来の誓願を聴聞させていただくばかりの真宗門徒には、おかど違いのお経です。阿弥陀如来の救いは無条件です。例えて言えば、お母さんが無条件に授乳している姿を思い出していただければどうでしようか。赤ちゃん自身、お母さんに授乳の代価を支払うことも出来なければ、このお乳をいただいたら、これこれのことをいたしますと誓うことも出来ない中で、赤ちゃんは無心に育っていくのです。だから真宗で「般若心経」をあげるということは、そういう赤ちゃんが乳房にすがりながら、その代償のことを口にしたり、誓いを述べるという、およそ考えもつかないおかしな風景になってしまいます。短くて、とにかく覚えやすい、他宗派でもあげているじやないかといった安易な理由で、このお経を拝読するのはあきらかに誤りです。
●真宗では「般若心経」は決して拝読しません。「般若心経」は自力の教えが説かれているからです。

↑『門徒もの知り帳』野々村智剣著より引用

▼住職から最後のひと言
「般若心経」は、短いから便利…という根性で、大切なお経を利用するわけにはいきません。その根性を問うことから始めたいですよね。


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