テーマ 身内の死、病気、けがなどにあったとき(23号)

2002(平成14)年3月1日


表紙

 稲沢市の国府宮神社は、2月のはだか祭りで有名です。厄年の男性の厄払いができるということで、とても人気のある祭りです。
 身内が亡くなったり、自分や家族が病気やけがをすると、

「今年は厄年だ」

といったり、

「先祖・水子のたたりだから、先祖供養・水子供養をしないといけない」

といったりもします。
 自分にとってつごうの悪いことが起きたとき、厄年のせいにすれば、厄払いが必要ですし、たたりのせいにすれば、先祖供養や水子供養が必要になります。その点では、国府宮のはだか祭りは、あらかじめ厄を落として、つごうの悪いことが起きないようにしようという予防策ともいえます。よく似たものに、癌封じなどがあります。これらは、世間できわめて当然のこととしてうけとられています。
 真宗門徒は、つごうの悪いことが起きても厄年を気にしませんし、先祖や水子のたたりのせいにしません。つごうの悪いことが起きることもあると承知していますから、祈願する必要を感じないのです。
 人間は、自分の意思や努力によって生まれてきたのではありません。しかし、成長とともに知恵がついてくると、何でも自分の計算と努力によって実現できると錯覚してしまいがちです。自分の人生には、つごうのよいことだけが起きるようにと期待します。意思や努力を超えて誕生したいのちに、自分のつごうのよいことだけを期待するほど、身勝手なことはありません。
 死、病気、けがなどは、阿弥陀仏が私に、ほんとうの自分自身に気がつけ、と願いをかけてくださっているさいそくとうけとり、どんなにつらいことも、厄払いなどをしないで、ありのままを生きていくのが、真宗門徒です。
 自分にとってつごうの悪いことから逃避し、ほんとうの自分の姿を見つめようとしない生き方ほど、むなしいことばありません。

↑『真宗門徒になるための本』真宗大谷派大垣教区出版委員会より引用

▼住職から最後のひと言
私も、やっぱり、都合の良いことが好きで、都合の悪いことは嫌いです。しかし、こんな言葉に出会いました。

死が不幸なら 幸福な人生も 不幸で終わる

「死」に代表されるように、私たちが都合の悪いことから逃避し続ける限り、人生は結局、不幸なもので終わってしまいます…。


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