テーマ 私の…ということ(66座)

2005(平成17)年8月1日


表紙


住職記

▼「わがこころは、ただ、かごに水を入れ候うように、仏法の御座敷にては、ありがたくもとうとくも存じ候うが、やがて、もとの心中になされ候う」と、申され候う所に、前々住上人、仰せられ候う。「そのかごを水につけよ」と。わが身をば法にひてておくべきよし、仰せられ候う。
                             (蓮如上人御一代記聞書 真宗聖典871頁)

▼これはあるご門徒さんが蓮如上人(前々住上人)に対して言われた言葉です。「仏法の話を聞いている御座敷では、ありがたいのに、そこから出ると途端に、もとの心になってしまう。それはまるで、かごで水をすくうようなものでしょうか。少しも持って帰れません」。
▼これは、このご門徒さんだけに限らず、仏法聴聞していく中で、誰もが同じようなことを感じているのではないでしょうか。
▼それに対して、蓮如上人はたった一言、このように答えられました。

  そのかごを水につけよ

▼私にはもう少し、この言葉の真意がわかりかねるのですが、表紙の漫画と重ねてみると、ひとつ思うことがあります。
▼私もまた、かごで水をすくうように、仏法をつかむことばかり考えてきたように思います。
▼私がつかんだものは、所詮、私の…であって、私を…問うことはありません。それより、その仏法を、相手を裁くものさしか、さらには、切り刻む凶器にさえしていきます。
▼言うまでもなく、それは、仏法と呼べるようなものではなく、余計な私の…武器をまたひとつ増やしただけのことだと思います。
▼蓮如上人は、このような、かごの如く、私の…とするものは決して仏法ではなく、何もかも、私の…と生きる、そんな私全体に、水の如く、問いかけるのが仏法であるということを

  そのかごを水につけよ

という言葉で教えているように思います。
▼今、そのような仏法に生きられた宇野正一さんの言葉を思い出します。

  生活の中の念仏ではなく
  念仏の中の生活である

編集後記

▼お経や正信偈等のお勤めは、黙読ではなく必ず声に出して読みます。黙読の限りは、どうしても、私の…域を出ないのではないでしょうか。その声を通して、私を…聞くのだと思います。また、そのお経本等は、決して袂(たもと)に入れてはいけないと教えられます。どうでしょうか、袂に入れた瞬間、私の…になってしまいますよね。

▼2011年、宗祖親鸞聖人750回御遠忌を迎えるにあたって、テーマである「今、いのちがあなたを生きている」という言葉から、いのちさえも私の…として生きる、そんな私が問われているように思います。


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