テーマ 座り込む私だけの救い(60座)

2004(平成16)年8月1日


表紙

私の生が満たされぬのは
 答が見つからぬからではなく
 それを問おうとしないからだ

私の日常が胡散臭いのは
 救いが無いからではなく
 救われてしまっているからだ

私がなぜか不安なのは
 頼むものが無いからでなく
 頼むものをしっかり握っているからだ

私の顔色の冴えぬのは
 心の修養がおろそかだからでなく
 心の工夫ばかりに関わりはてているからだ

私がいつもけだるいのは
 楽しみに飽きたからでなく
 人々と苦をともにしようとせぬからだ

私の日ごろが虚しいのは
 何かが不足しているからでなく
 身を投げ出すご用が見い出せぬからだ

私の本当の救いとは
 もはや私一人が
 救われなくともよくなることだ
          和田 稠「同行」41号 浄泉寺発行より

住職記

▼阿弥陀如来立像である、真宗の本尊は、仏が立ち上がっている姿です。これは危なかしい子どもに親が、じっとしておれなくなった心といわれ、阿弥陀如来は苦しみ、悩む私たちの現実を見て、自分一人、覚りの境地に座り込むわけにはいかないと、呼びかけている仏であります。
▼また、親鸞聖人は、一一八一年、九歳の春、出家得度されました。鴨長明の『方丈記』によると、その頃は飢饉、そして疫病が流行り、二ヶ月で四万人以上の死体が京の町を埋め尽くしていました。最後の食べ物を子どもたちに与えるので、ほとんどの親は先に死んでしまい、その傍で子どもが泣いているという、まさに地獄そのものであったと記録されています。この人々の事実を胸に、親鸞聖人は仏道を歩まれた故、最終的には比叡山を下り、私だけの救いではなく、誰もが救われていく道を切に求められたのだと思います。
▼このような本尊に出遇うと、座り込むことばかり願っている自分、また、このような親鸞聖人に出遇うと、私だけの救いを求めている自分が明らかになってきます。
▼最近よく、私は私でよかったと思えることが救いであると聞かされます。確かにそのことは大切なことなのですが、ただ、どうでしょうか、日常、そんなふうに思えるのは、やはり、思い通りになってしめしめという、そんな感覚が強いのではないかと思うのです。私は私でよかったと、座り込む私だけの救いが今、本尊と親鸞聖人から問われてきます。あらためて表紙の言葉と、次の言葉を頂き直したいと思います。
 
 もっと、もっと、悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちにのしかかって来ているのです。安っぽい喜びと安心に浸るような信仰に逃避していることは出来ません。むしろ、そういう安っぽい信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。                   
               安田理深

▼私たち(仲間だけではなく、すべての人)が共に救われていないのに、そんな簡単に感謝や幸福の念で、私は私でよかったなどと、救われてしまうわけにはいかないと思います。

あとがき

座り込む私だけの救いではなく、
すべてのものが
救われていく世界を浄土という。
それは、阿弥陀如来、
親鸞聖人から
こうありなさいと
言われる世界ではなく、
他でもない、私自身が
こうありたいと
願っている世界であると
教えられます。


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