テーマ 2003年 報恩講(56座)

2003(平成15)年12月15日


表紙

たいせつなもの  ごとう やすゆき

ぼくを見る目。
いろんな声。
ちょっとしたしぐさ。
消えてしまったいのちを思うとき、
まっ先に浮かんでくるのは
あの日、何気なくながめていたひとつひとつ。
そのいとおしいひとつひとつが教えてくれる。
そこにあって当たり前のものなんてないということを。
とくに変わったことのない

『ふつうの日』も。

まるで、ずっと昔からそこにすわっているような

『いつもの人』も。

幸せは見落としてしまいそうなくらい、
ありふれた色をしている。
それにちゃんと気づいていけたらな、って思う。
たいせつなものをなくしてしまうたびに、
心から、そう思う。

住職記

■二〇〇三年も、浄願寺の報恩講法要が勤まりました。法話の中で、講師の黒田進先生がひと言、このように語られました。

 『私たちは生きることひとつひとつを当たり前にしてはいないか』

■これは間違いなく、私の生きる姿勢をずばり、言い当てた言葉です。その時、ふと思い出したのが上の詩です。

■私のまわりも、この一年間に、何人もの方が(還浄)亡くなられました。亡き人は後に遺こされた私たちに、生きていることは、決して当たり前ではないということを教えて下さいます。
 
■「空過」多き私が、すべてが当たり前ではないという自覚に立つ時に初めて、一日一日を、上の詩でいうなら

『ふつうの日』を

丁寧に生きることが始まるように思います。

■「注文」多き私が、すべてが当たり前ではないという自覚に立つ時に初めて、まわりの人を、上の詩でいうなら

『いつもの人』を

辛うじて大切に出来るのだと思います。

十二月五日(金)

午後二時からの初逮夜の後、親鸞聖人のご生涯が綴られた御伝抄の拝読です。

↑上巻は澤面宣了(当寺住職)です。

↑下巻は樋上聡さん(前東本願寺)です。

十二月六日(土)

午前六時からの晨朝の後、澤面章氏(当寺前住職)の御文の拝読、越本達了さん(大阪 専光寺住職)の前座法話、黒田進先生(宮司町 満立寺住職)の法話です。

↑澤面章氏の御文の拝読です。

↑越本達了さんの前座法話です。
越本達了さんからのひと言です。
毎日、私は自分の立場を守るためだけに、忙しくしているのではないか。

↑黒田進先生からの法話です。
黒田進先生からのひと言です。
よく考えてみると、この世の中に、他力でないものはひとつもない。

午前九時半からの日中の後、澤面真世氏(当寺坊守)の御文の拝読、高山崇さん(山階町 円乗寺住職)の前座法話、黒田進先生の法話です。

↑澤面真世氏(当寺坊守)の御文の拝読です。

↑高山崇さんの前座法話です。
高山崇さんからのひと言です。
報恩講という場に、先達たちは、一体、何を学んできたのだろうか。

黒田進先生からのひと言です。
私たちは生きることひとつひとつを当たり前にしてはいないか。

午後一時からの大逮夜の後、島野政友さん(大阪 貞正寺住職)の御文の拝読、照井静志さん(長浜教務所)の前座法話、黒田進先生の法話です。

↑島野政友さんの御文の拝読です。

↑照井静志さんの前座法話です。
照井静志さんからのひと言です。
人間関係の一番の基本は、相手の違いを認めていくことではないだろうか。

黒田進先生からのひと言です。
人間というものは、外面如菩薩、内面夜叉と教えられる。

十二月七日(日)

午前六時からの結願晨朝の後、和田英昭さん(岐阜 照明寺副住職)の御文の拝読、木村英淳さん(大阪 玉泉寺住職)の前座法話、黒田進先生の法話です。

↑和田英昭さんの御文の拝読

↑木村英淳さんの前座法話です。
木村英淳さんからのひと言です。
今、やられたらやり返すという、私たちの論理が、戦争をはじめ、様々な問題を生み出しているのではないか。

黒田先生からのひと言です。
今、私たちの生き方を農業ということでたとえるならば、作物を作ることばかりで、土を作るということを忘れているのではないだろうか。

↑法話の後、本堂であずきがゆをいただきました。

午前八時半からの子ども報恩講です。その後、満日中に子どもたち、一人ひとりからの献花です。

↑子ども報恩講です。

↑献花です。

午前九時半からの満日中の後、住職の御俗姓の拝読、和田英昭さんの前座法話、黒田進先生の法話です。

↑澤面宣了の御俗姓の拝読です。

↑和田英昭さんの前座法話です。
和田英昭さんからのひと言です。
私の中に、すべて自分中心という醜い心が潜んでいる。それが家庭であらわになってくる。

黒田進先生からのひと言です。
仏の教えに出遇うということは、自分の中に限りなく、清浄の心もさらになしということが知らされていくことである。

このように、二〇〇三年も報恩講に遇わせて頂きました。準備から色々とお世話をして下さいました総代の皆様、婦人会の皆様、子ども会の役員の皆様、子どもたちにお菓子を下さいました藤居吉男様、そして皆々様、本当にありがとうございました。

編集後記

▼すべてが当たり前ではないという自覚に立つ時に初めて、まわりの人を辛うじて大切に出来るのだと思います。と表紙に書かせて頂きました。ということは、日ごろ、当たり前に生きる私は、かなり、まわりの人に、粗雑に、乱暴に生きているということをよくよく知らねばなりません。
▼それなら、どうすれば、当たり前ではないという自覚に立つことが出来るのだろうかと自問自答しています。どうでしょう、それは、自分の心がけぐらいでは、決して出来ることではないように思います。自分の力ではなくて、きっと、人に出会う、言葉に出会うということしか私にはないように思います。

一九九八年六月の浄願寺の掲示板の言葉です。

私が無駄に過ごした今日は
昨日 亡くなった人が
痛切に生きたいと思った一日である

▼まさに、一日を当たり前に生きる私に丁寧に生きよと厳しく問いかけてくる言葉との出会いです。


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