テーマ ナンバーワンからオンリーワンへ(47座)

2002(平成14)年6月1日


表紙

■「人を殺す体験をしてみたかった」の愛知・豊川市で女性を殺した少年は、その後、学校を「除籍」になっていることを新聞で知りました。「中退」、「退学」ではなく「除籍」です。除籍とは、元々その学校にその子は存在しなかったことにするということです。今回の「除籍」も同じ意味であるならば、とてもひどいことです。

■「いい子」でなくなったらそのとたんに、その子が「存在した」事実までも消してしまうというこのやり方そのものが、いま、子どもたちに「存在惑のなさ」を与えていると、私は思います。事件を起こしたら、ただちに、その学校にいたことすら消してしまうなんて、これが「教育」なのでしょうか。

■思春期という、本人にとってもわけのわからない時期、心配してくれたり、より添ってくれたり、少なくとも、「大丈夫かい?」と顔をのぞいてくれる、そんな人がいっぱいいるのが学校であり、教育の場だったはずです。この「除籍」という対応は、この少年の在学中、そういう関心を持ってくれる人がいなかった学校を思わせます。家庭の状況も合わせて想像すると、この少年の孤独の底なしの深さに、胸が痛くなります。


『孤独な、なかよし』青木悦著より

住職記

◆先日、恐竜のマスコット人形をいっぱいに並べて遊ぶ三才の息子に、この中でどれが一番好きかと、ふと聞いた。一番はひとつだと思い込んでいる私に予想外の答えが返ってきた。

「ティラノザウルス」と「プテラノドン」と「トリケラトプス」と「イグアノドン」と「ブロントザウルス」と「ステゴザウルス」と…、

どうもそこいる全部の恐竜の名前を言うつもりである。

◆どれが一番と聞く私に、どれも一番と答える息子との会話の中でこんな言葉を思い出した。

ナンバーワンにはひとりしかなれないがオンリーワンにはだれもがなれる

◆釋尊(おシャカ様)は、どんなものもくらべることの出来ない、尊いいのちを生きているということを

「天上天下唯我独尊」

と表現し、また、「阿弥陀経」では、それぞれの色がそれぞれの光で輝いているということを

「青色貴光」「黄色黄光」「赤色赤光」「白色白光」

という言葉で説かれる。まさに、息子が見えている世界のことであろうか。逆に、そんな世界をすっかり見失っているのは、親の方だと痛感させられた瞬間であった。

◆今、真摯に、相田みつを氏の「みんな ほんもの」という詩を思い出してみたい。

トマトがね トマトのままでいれば ほんものなんだよ 
トマトをメロンにみせようとするから にせものになるんだよ 
みんなそれぞれに ほんものなのに 
骨を折って にせものになりたがる

◆ところで、教育ジャーナリストである青木悦氏(表紙参照)は相次ぐ、青少年の事件の共通点の多くに、その子は「いい子だった」「まじめだった」ということがあると述べている。「トマトではだめだ、やれナンパーワンを目指せ」と事件を起こす時まで常にまわりから要求されてきたのではないだろうか。

「僕はずっと、透明人間だった」(神戸 酒鬼薔薇事件 14才)

「僕のいのちなんてどうでもいい、だから誰のいのちもどうでもいい」(佐賀 西鉄バスジャック事件 17才)

「事件を起こして話を聞いてもらいたかった」(大阪 守口社長殺人事件 23才)

◆これらの声をどのように受け止めていくのか。オンリーワンの世界を見失った者が厳粛に問われている。

編集追記

■私事ながら、先日の4月27日、実家の父が亡くなった(還浄)。
私がまだ、大阪に居た頃、家族でこんな会話をしたことがある。兄が

「お父さん、子どもも3人おったら、みんなの歳とか誕生日とか昔のこととかが、段々ごちゃまぜになってくるんと違う」

と冗談っぽく、こんなふうに言った途端、日頃、ほとんど怒らない父が強い口調でこう言った。

「達了(兄)は昭和○年○月○日に生まれて、○年に○○小学校に入学して…宣了(私)は昭和○年○月○日に生まれて…宗子(妹)は…」

それは決してごちゃまぜではなく、オンリーワンと見る、父の子どもに対する気持ちであったに違いない。
今ごろになって思い出している。お父さんありがとう…。

■大人からの苛酷な要求に現代の子どもたちは本当に疲れきっているようであるが、青木悦氏はもっと見えにくい形で子どもを悩ます事柄をこんなふうに書いている。

「どうして家が嫌なの」

とこう聞いてみました。そうしますと、その子が困った顔をしてうつむくんです。どうしたんだろうと思ってじっと待っていましたら、こんなふうに言うんです。ちっちゃな声でした。

「なにが嫌だって、いちぱん嫌なのはあの手作りおやつなの…」

とこう言うんです。(中略)

「いいじゃないの、おばさんなんかあなたと同じ年くらいの男の子がいるけど、忙しくって何も作ってやれない。ハッと見たら、うちの子なんかスーパーだのコンピニだのに飛び込んで、どうみたって体にいいと思えない真っ青な液体なんかチュウチュウ飲んでいた。それ見ると胸がキュンと痛くなって、悪いね、申し訳ないねって思うんだけど、今はしゃあないっていう感じで、片目つむって、両目つむって生活してるのに、君は幸せじゃないの、毎日毎日手作りのおやつが食べられるなんて」

とこう言ってしまったわけです。そうすると彼はさらに困った顔をするわけです。そしてこういうふうに言いました。

「ボクがその手作りおやつを食べるあいだ中…」

ちなみに彼は最後まで「手作りおやつ」と言い通しました。おやつではなくて、「手作りおやつ」というふうにインプットされているわけです。

「お母さんはテープルの反対側に座ってね、ずっとしゃべってるんだ。」

「何をしゃべってるの?」

「どう、おいしい?今日の粉はね、どこどこまで行って買ってきた無農薬の粉なのよ。このバターはね、どこそこから手にいれたものなのよ」

とこうしゃべってくるって言うんです。子どもはこういうお母さんを嫌だなんて全然思っていないんですね。ただほんとうにけなげだなあと思ったのは、彼の悩みはここから先の、こういう言葉で出てきました。

「最初の日はありがとうって言えたんだ。次の日はおいしかったよ。その次はたいへんだったね。その次は疲れたでしょうって。いくつかは最初言えたんだ。でも毎日統くもんだから、もう言葉がないんだ…」

こんなところで子どもは悩んでいるんです。そういう意味では、私たち大人はほんとうに鈍いです。


『いま、子どもたちのいるところ』青木悦著

■良かれと思ってしたことが相手を苦しめていることがある。人は案外、良いと思うことで間違いをする。そのことを知っていたいとあらためて思い直している…。


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