テーマ 闇が無くなるということ(17座)

1997(平成9)年5月1日


表紙

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
親鸞聖人(聖典251)

住職記

「わしらの子どもの頃にはなあ、夜になると、ぞっとするような闇があったんやけど、今はもう、夜でも明るうなったなあ。でもなあ、闇が無くなるということは、実は、明るさもわからんようになってしまうんやで…」

▼あるおじいさんからこんな言葉を聞かせて頂きました。しかし、これは何も夜の話だけではなく、私たちの生き方もまた、そんなふうになっているように思います。できるだけ都合の悪い「暗」を追放し、都合の良い「明」だけを追い求める私たち…、果たして、それで良いのだろうか。

▼以前、本夛恵先生が、このようにお話されました。

親鸞聖人は、私たちに、人間であることの「喜び」よりも、むしろ、人間であることの「悲しみ」を教える。

▼「悲しみ」とは、先の「暗」と「明」で言えば、「暗」の方ですが、そのことは、親鸞聖人をはじめ、多くの方から教えられていることです。

ただ
花には人間のような かけひきがないからいい
ただ咲いて ただ散ってゆくからいい
ただになれない 人間のわたし(相田みつを)

黒い土に根を張り どぶ水を吸って
なぜきれいに咲けるのだろう
私は 大勢の人の愛の中にいて
なぜみにくいことばかり考えるのだろう。(星野富弘)

▼そこに詩(うた)われてるのは、表紙の「恥ずべし、傷むべし」のような「悲しみ」であり、やはり、人間であることの「暗」です。

▼出来る限り「暗」を追放する私であるのに、何故か、このような言葉に会うと

「あぁ、まったく自分がそうだ…」

と共感し、ただただ深く頷くばかりです。そして、これが不思議なことなのですが、その時に感じるのは、「暗」からの「明」なのです。寄せ集めてきた「明」ではなく、より確かな「明」のように思うのです。念仏者の浅田正作さんは「ちがった世界が ひらけて来た」と表現されています。

自分が可愛い
ただ それだけのことで
生きていた
それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけて来た(浅田正作)

▼できるだけ都合の悪い「暗」を追放し、都合の良い「明」だけを追い求める私たち…、あらためて、おじいさんの言葉の深い意味を頂き直したいと思うのです。

「闇が無くなるということは、実は、明るさもわからんようになってしまうんやで…」

編集後記

▼人生は一寸先は闇といわれます。ここでの闇とは、私たちが生きるということは、何時、何が起こるかわからないということですが、その結論は「死」であり、人間は必ず死ぬということです。私たちは「死」をも追放し、死ぬという事実から目をそらしているから、本当に生きるということが始まらないのだと思います。そんな私たちを見据えてか、こんな言葉があります。

死の自覚が生への愛だ(田中美知太郎)

▼とにかく「闇」を追放する私たちは、限りなく「光」も「愛」も失っていることを自覚しなければなりません。


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