テーマ この世の迷信と闘う(13座)

1996(平成8)年9月1日


表紙

■組坂 
あるいは、例の六曜ですね、大安とか、仏滅とか。

■小林
あれイライラしますね、システム手帳の中に大安だ仏滅だとか書いてあると「こんなのとっぱらえ、関係ねえんだからよ」と思ってしまう。

■組坂 
仏教では、人の死というのは、ケガレではないんです。人の死を弔うということは、なくなった人の生き方や歴史に学ぶんだということなんです。ですから、私どもなんかも「浄めの塩」をやめつつあるんですよ。
 生活の慣習としての、ケガレ思想、非科学的なね、それらが部落差別や女性差別、障害者差別なんかを支えてゆく裾野になっとるわけですから、少しずつでも変えて行きたいですね。

『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』小林よしのり著より


▼迷信のあれこれ

× 友引に葬儀はだせない。

× 中陰(命終から、七七日までの四十九日間)が三月(みつき)にわたってはいけない。

× 何もないときに、仏壇を購入してはいけない。

× 葬儀のあとは、塩で、清めないといけない。

× 法名は、死んでからもらうものである。

『真宗門徒になるための本』真宗大谷派大垣教区出版委員会より

住職記

■世間にはイロイロな迷信(表紙参照)が大流行です。その中の「清め塩」について、ある女の子のこんな作文があります。

 どうしてお葬式、火葬の後、塩やみそで体を清めなければいけないのでしょう。私も知らないで火葬の時、塩とみそで体を清めました。「どうして塩やみそを家に入る前になめるの」と聞いたら、「体を清めるためだよ」と言われて「そんな?」という気持ちになりました。これはまるで、おじいちゃんをぶじょくしているようなやり方だと思いました。私のおじいちゃんは少しもよごれてなんかいません。べつにこんなことをする必要なんてないと思いました。これからどの葬式にいっても、こんなことはしたくありません。

『同朋新聞』東本願寺発行

■私たちは今日まで迷信に惑わされず、正信に生きようと教えを受けてきました。そして「清め塩」をやめるためにはをはじめ、多くの迷信についてお寺の同朋会など色んな場所で話し合ってきました。

「昔からの風習やからなあ」
「なかなか改革っていうのはむつかしいなあ」

そんな声が聞こえる中、私はこのような迷信と闘わなければならないと強く感じていました。ところが、こんな私をじっと見ていたかのようにこんな言葉に出会いました。
 
自分が/見えず/世間のことを/批判するのは/なんと/めでたい人だろう。

■都合の良いことは招きよせ、都合の悪いことはけがれたものとして塩をもって排除していく…、そもそも、そんな生き方をしているお前を見よと指摘されているように聞こえます。考えてみると、私は、

「お葬式に清め塩は使いません」

と、ただ頭で知っているだけで、実は、私の日常生活すべてが眼に見えない「清め塩」を使った日々であるといわねばなりません。

●重ねて、この歌を思い出します。

もしもできることなら、父さん母さんは
故郷の空や海を青いままで
お前に残したい
故郷のやさしさをいつまでも
お前に残したい
親を愛することは
故郷を愛すること
故郷を愛することは
友だちや地球を愛すること
そして愛するということは
愛を破壊するものと闘うこと

『もしもできることなら』まよなかしんや

■ここでも私は、愛を破壊するものは、何処かにいるんだと思っていました。そして鉄砲などを手に、勇ましく相手と闘うイメージを抱いていました。しかし、そうではなく、便利と快適が好きで、使い捨ての生活を送り、電気や水は使い放題、どこに行くのも車に乗ってと、そんな私が空や海の青さを変えるのです。

■願わくは、この世の迷信と闘う者でありたい。決してそれを外に見ないで…。

あとがき

▲そういえば、真宗本廟(東本願寺)の親鸞聖人の御真影…、
あれは闘う者の顔ですよね…。
▼これも『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』の中にあった言葉です。

「闘え!闘う魂こそが輝くのだ!」


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