テーマ いのり〜南無阿弥陀仏に先だって、阿弥陀仏南無がある〜(103座)

2011(平成23)年10月1日


表紙

主人公 作詩/作曲 さだまさし

時には思い出ゆきの
旅行案内書にまかせ
「あの頃」という名の駅で下りて
「昔通り」を歩く
いつもの喫茶には まだ 
時の名残りが少し
地下鉄の駅の前には「62番」のバス
鈴懸並木の古い広場と学生だらけの街
そういえば あなたの服の
模様さえ覚えてる
あなたの眩しい笑顔と
友達の笑い声に
抱かれて 私はいつでも
必ずきらめいていた

「或いは」「もしも」だなんて
あなたは嫌ったけど
時を遡る切符があれば 
欲しくなる時がある
あそこの別れ道で
選びなおせるならって…
勿論 今の私を悲しむつもりはない
確かに自分で選んだ以上精一杯生きる
そうでなきゃ あなたにとても
とてもはずかしいから
あなたは教えてくれた 
小さな物語でも
自分の人生の中では 
誰もがみな主人公
時折り思い出の中で
あなたは支えてください
私の人生の中では 
私が主人公だと

住職記

■曽我量深先生が、「南無阿弥陀仏に先だって、阿弥陀仏南無がある」という言葉を残しておられます。それは仏でさえ代わることの出来ない一人ひとりの人生の重さに、阿弥陀仏の方が拝んでおられるのだと教えられました。
■今、そのことで思い起こされるのは、本夛恵先生との食事の時の会話です。  
 
  足が不自由な本夛先生が「トイレに行きたくなってきたよ」と言われるので、私はトイレまで付き添おうと思い「それじゃ一緒に行きましょう」と応えました。すると先生はニャッとして「違うよ」とひと言。私は意味がわからずその場に突っ立っていると、先生はなんと、「僕の代わりにトイレに行ってきてくれ」と言われるのです…。呆れている私に先生は机をポンと叩いて(大事なことを話す時の先生の 癖です)こう諭されました。
 「一人の重さとは、そういうことだよ。トイレひとつ代われんのだよ…」

■どうでしょう、極めて当然のことですがその通りなのです。トイレひとつ代われないのです。実は、誰もが仏でさえ代わることの出来ない人生そのものを背負って生きているのです。
■さらに、次の文章が響いてきます。これは暁学園で、生涯を送られた祖父江文宏さんの言葉です。そこの子どもたちのことを「小さい人」と呼んでおられます。

  小さい人が育っていく傍らにいて、小さい人の苦しみや悲しみに応えられないままに、ただ、手を握り返すことしかできなかったことが、これまでにも数え切れないほどにあった。その人のためにはどうすることもできないで、ただ自分の無力さだけを骨に刻み込み、こころが痛かったこと。何かをし、 何かを言えば、苦しむ人への誠実さを失い、その人をつながりの外に押しやって、自分を無責任な傍観者にしてしまう。その人の悲しみの前で無力なまま、その人の悲しみに身を添わせる以外にない、ただ手を握る しかないときばかりであった。自分が、人を救う者にはなり得ないと、力の限界を知らされ、ただ、苦しんでいる人の、手を握る以外にないときばかりであった。そんなときは、励ましの言葉もなぐさめの言葉も嘘になる。すべての言葉が死に、越えられない川の岸に立ち尽くす。ただ祈りだけが残る。
『悲しみに身を添わせて』祖父江文宏著

■「越えられない川の岸に立ち尽くす」とあるように、苦しみや悲しみもまた、代わることの出来ないそんな人間の厳粛なる事実を前に、人と人との間に流れる越えられない川の岸に、私たちは立ち尽くすしかないのです。それは無力ということではなく、一人ひとりの人生の重さということなのでしょう。
■南無阿弥陀仏とは、そのような一人ひとりを拝むということではないでしょうか。
■そしてそれに先だって、「ただ祈りだけが残る」の如く「阿弥陀仏南無」という仏の祈りがあるのだと思います…。

編集後記

▼表紙の歌は昭和53年に発表されたもので、当時の私は中学生でしたが、この歌にとても感動したことを今も憶えています。「あそこの別れ道で選びなおせるならって…」の詩が年々響いてきます。一度きりの人生、代わることの出来ない人生、「誰もがみな主人公」なんですね。カラオケでも時々歌っていますので、ぜひまた、リクエストくださいませ。(笑)

▼大谷派教団は、「祈り」という言葉をタブー化しているのでは、と思う方がいらっしゃるかもしれませんが決してそうではありません。現に親鸞聖人のお手紙の中にも「いのり」という表現が出てきます。

世のいのりにこころいれて
(真宗聖典568頁)

この世のちの世までのことを、いのりあわせたまうべくそうろう
(真宗聖典578頁)

ひごうだる世のひとびとをいのり
(真宗聖典578頁)

▼親鸞聖人もまた、いのりの中、一人ひとりが主人公であるそれぞれの人生の重さに南無されているのだと思います。

編集追記

「すべての言葉が死に、越えられない川の岸に立ち尽くす。ただ祈りだけが残る。」という表現を聞くと、一瞬、絶望感、無力感を感じてしまいそうですが、決してそうではありません。そのことは、祖父江文宏さんが、同じ本のなかで、表現してくださっていますので、最後に列記させていただきます。

▼祈りは無力感のなかで祈られるのではありませんでした。無力を知らされることは、立ち上がることのできない絶望ではありません

▼祈る以外にない祈りこそ、おおきな希望

▼他人のために何もできないと知らされたとき、人は祈る以外にないの だし、祈る以外にない祈りを祈るときにこそ、その人がその人らしく輝いて、生きていく力としての希望を受け取っているときなのだと思いました

▼祈りとは、力及びがたき自分の発見です


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