テーマ 選択(117座)

2013(平成25)年9月1日


表紙

 ウィリアム・スタイロン原作の映画『ソフィーの選択』(アラン・J・パクラ監督)を参照してみよう。この作品で、主人公ソフィーは、ドイツのユダヤ人強制収容所で、ナチの将校から究極の不可能な選択を迫られる。ソフィーには二人の子どもがいる。ナチ将校は、彼女に、二人の子どものうちのどちらかを選べ、と迫る。選ばれなかった方の子どもは、ガス室に送られ、殺される。もし彼女がどちらも選ばなかったときには、子どもは二人ともガス室に送られる。ソフィーはどうしたらよいのか。追い詰められた彼女は、ついに、下の息子の方を選んだ。しかし、そのために彼女は、深い深い罪悪感から逃れられなくなり、ついには発狂してしまう。
 われわれは、ソフィーの選択の場面を見て、胸が裂けるような思いをもつ。そして、彼女は、そうするほかなかったのだろう、上の子を犠牲にするしかなかったのだろう、と考え、そして彼女の苦悩や悲しみを思って、深く同情する。「ソフィーの選択」は、真に困難な問題であると考えられており、倫理学や哲学の論文でも頻繁に引用されてきた。
 だが、ソフィーの手のうちにあるものが、二人の子どもではなく、一人の子どもとエアコンだったとしたらどうであろうか。強盗が来て、子どもかエアコンのどちらかをよこせ、と彼女に迫っているとしたらどうだろうか。突然、問題は倫理学の論文で扱うまでもない易しいものに変わる。しかし、もしここで、彼女が、子どもにしようかエアコンにしようか、迷ったらどうだろうか。子どもも大事なことは大事だが、暑い夏を乗り越えるのにエアコンがないのは辛い、と彼女が迷いに迷ったら、われわれはどう思うだろうか。彼女の倫理観や愛情にあきれるだろう。まして、彼女が、エアコンの方を採ったら、憤激するに違いない。
 原発を廃止すべきかどうかと迷っているとき、われわれは、この改訂版のソフィーと同じ状況に置かれているのである。子どもの命とエアコンのある快適な夏のどちらを選ぶべきなのか。こういう選択は、夕食にステーキと鮨(すし)のどちらを食べようかという選択とは、まったく種類を異にしている。命とエアコンの間には、選択の対象として比較すること自体が冒涜的であるような圧倒的な乖離(かいり)がある。われわれは迷うことなく、子どもの命(原発廃止)の方を採るべきではないか。

「可能なる革命」大澤真幸(おおさわまさち)文
『at (アット)プラス』08(太田出版)より

住職記

■ご案内の用紙(一番下参照)の如く、今年も長浜教区から被災地へ支援物資が届けられます。何卒、引き続きご協力の程、よろしくお願い致します。浄願寺へお持ちいただくか、住職にお渡しいただきますなら、浄願寺の本堂にお供えの後(下写真参照)、住職が長浜教務所の方へ届けさせていただきます。尚、メッセージシート(一番下参照)をプリントアウトしてお使いください。

▲集まったお米と飲料水は浄願寺本堂にお供えします。2012(平成24)年3月19日

▲集まったお米は浄願寺本堂にお供えします。2012(平成24)年9月28日

■今、あらためて、表紙の文章と次の文章を読み直したいと思います。これは先日、湖西キャンパスで福島の子どもたちの一時保養を通して、三品正親(みしなまさちか 福島の子どもたちの一時避難受け入れの会代表)さんが書かれたものです。

 福島県内の子どもたちの甲状腺を調べると、小さな嚢胞(のうほう)が見つかっている子どもたちがいて、お母さんの中に、「こんなに気を遣った生活をしているのに、我が子にも見つかりました」と、言いようのないつらさを吐露(とろ)されている方もいました。ボランティアで参加した大谷大学の学生が、子どもたちと関わる中でこんなことも話してくれました。二日目に外の公園に遊びに行こうと四歳の子を誘い、靴を履こうとしていたとき、「ここはほうしゃせんないの?」と聞かれたので、「大丈夫、ここには放射線はないよ」と言うと、「しがけんってさいこうだね」とひとこと言ったそうです。福島では外で遊ぶことすらままならない現実があり、わずか四歳の子が外遊びすることに気を遣っていると思うと、その学生は愕然とすると同時に返す言葉がなかったと話してくれました。また、帰られたお母さんから写真付きのメールが送られてきました。それは、福島で道端にしゃがみ込み、滋賀で咲いていたものと同じ花をじっと見ている女の子の写真でした。その時、お母さんが「なにやってんの?」と聞くと、子どもは「見ているだけだよ」と答えたそうです。それに対して、お母さんは私に「福島に帰ると意識が自然と切り替わる「福島スイッチ」を娘も持っていました」と教えてくれました。その写真の子の何とも寂しげな後ろ姿に、なんということになってしまったのだろうかと、いたたまれない気持ちになりました。悔しいですが、放射能とはそういうものなのです。目には見えない怖いものです。しかし、故郷を簡単に離れられないのもまた現実なのです。そんな子どもたちに、私は何を伝えられるというのでしょうか。それは、まずは謝ることでしか始まらないように思います。頭を下げ、福島で今何か起こっているのかを聞き、知ることが大事です。福島の方が叫ばれる「福島を忘れないで」という言葉には、福島の現実を知るということと、二度とこのような過ちを起こすなという二つの意味が込められていると思います。
『真宗』2013年6月号より

▲砂遊び

あとがき

 三品正親さんの「まずは謝ることでしか始まらないように思います」の言葉を胸に刻みたいと思います。そして、大澤真幸さんの言葉「子どもの命とエアコンの選択」、私たちはどちらを選ぶのですか。




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