テーマ 父・釋即章還浄(259座)

2025(令和7)年10月1日


父・釋即章還浄 ごあいさつ

先日8月26日8時12分、浄願寺前住職・釋即章が参らせて頂きました(還浄)。
生前中はこの上ないご厚情を賜りましたこと心よりお礼申し上げます。
御存知の通り、父は門徒さんのことを絶対信頼していました。
「総代さんを始め、門徒さんにまかせておけば絶対間違いない」
と言うのが口癖であり、生涯、その姿勢が父の姿でした…。
私はその背中とそのような門徒さんにお育て頂きました。
残された私たち遺族は父の意思を継ぎ、
門徒さんと共に聞法に勤しんで参りたいと存じます。
皆様には私たち遺族に対しましても
故人同様のお心を賜りますよう
宜しくお願い申し上げます。
この度は誠にありがとうございました。
南無阿弥陀仏

父・釋即章を思う

私がまだ大阪に住んでいた小学校1年生の時です。
私は水が怖くて1学期の夏ごろからのプールの時間が
苦痛でたまりませんでした。
それが理由で学校にはもう行きたくなかったのです。
それからやっと夏休みになり、
大阪の両親と一緒に浄願寺に遊びにきました。
その時、さわものおっちゃん(当時は即章さんのことをそう呼んでいました)は
車で琵琶湖のさいかち浜水泳場に連れて行ってくれました。
そこで泳ぎの特訓をしてもらい、なんと見事に泳げるようになったのです。
今、その時の情景を鮮明に思い出します。
嫌がる私、まず怖い水に顔をつける、そのようなことから始まり、
根気よく、それはそれは長い時間をかけて付き合ってくださいました。
おかげで2学期からは元気に登校出来たのでした。
その後浄願寺に入寺、結婚を経て、約40年の日が経った
またもや夏休みのことです。
今度は小学生の娘の花宝に対して、
乗れなかった自転車の特訓をしてくれたのです。
それもやはり父・即章でした。
またまた長い時間をかけて自転車に乗れるようにしてくれました。
出来ないとついつい短気になる親の私(自分が出来ないことは棚に上げて)には
到底無理なことでした。
父は、どこまでも相手に寄り添い、ずっと待っていてくれる人でした…。
今までそのような優しい心を注いでくださり、本当にありがとうございました。
出来れば私も父のようになれたらと願うばかりです。
父を讃えるのは恐縮ですが、ここに記させて頂きます。                                     南無阿弥陀仏

▼この度の浄願寺永代経 兼 彼岸会法要に向けて、ある門徒さんから次のようなお手紙を頂きました。

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。 (亡き父母の追善供養のために念仏一遍、いまだかつて唱えたことがない)祖先崇拝が盛んな日本においては、仏教は亡くなった父母ら縁者の追善供養と強く結びついています。私もまた念仏を唱える意味をそのように捉え法事を執り行ってまいりましたが、前述の歎異抄の一文を目にした時、驚きと戸惑いを禁じえませんでした。市井の真宗門徒は、親鸞聖人のお言葉をどのように理解し仏事に向き合えばよいのでしょうか。永代経法要における法話において、ご教授賜りますればこの上ない幸せでございます。お父上が亡くなられて間もないこの時期、非礼をお許しください。
浄願寺一門徒より

▼そして講師の永井宗貴さんは、東本願寺参拝接待所の

「亡き人を案ずる私が亡き人から案ぜられている」

の言葉から始まり、難波別院の機関紙「南御堂」の文章(下参照)も用意され、懇切丁寧にお話くださいました。いつもの語録(下クリック)の形ですが掲載させて頂きます。

▼永代経 兼 彼岸会法要が勤まりました。見る

問い… 私は浄土真宗の門徒です。お手つぎ寺のご住職さんは、「真宗は先祖供養をしない、お経は先祖のためにあげているのではない」ということをよく言われます。しかし、他の宗派のお坊さんはほとんど、「先祖供養がいちばん大切です、ご先祖あっての私たちですから」といわれます。私も、常識的にいって亡くなった人を供養するのが本来の宗教だと思うのですが、真宗では本当に先祖供養をしないのでしょうか。またお経は何のためにあげてもらうのでしょうか。(神戸市・自営業・62歳)
答え… まず他宗派の人が「先祖供養が一ばん大切です。ご先祖あっての私たちですから」といわれる。その言葉に動かされて、迷っておられるようですが、あなたは浄土真宗の門徒だと、はっきり言明しておられます。それなら浄土真宗の教えに耳を傾けて、そこに立って生きていかねばなりません。人はみな自分の考えで物をいいますが、私たちは真宗の教えを依り所にすることが大切かと思うのです。ご先祖とは私にまでなって下さった「いのちの根」なのです。根はよき芽を出し、よく育って、成長し、木となり、花を咲かせよと、願っているのです。諸仏となられたご先祖は、「人となれ、仏となれ」と、願いつづけて来られているのです。それを忘れて、先祖の冥福を祈ったり、加護を願ったりしているのです。「先祖供養をする」と、体裁のよいことをいっていますが、結局はわが身のため、その保全を願ってのことなのです。『歎異抄』の中に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と度胆を抜くようなことを、いっておられます。父母孝養とは亡き父母への追善供養ということです。では親鸞聖人は父母孝養のために、一ぺんとして念仏もうされなかったほどの情の強い人であったのか。そうではありません。念仏は如来に回向されたものであり、大行なのです。それを忘れてわがご先祖の追善供養にのみ利用する、単なる先祖供養の道具として使おうとしている、そのことをいっておられるのです。いまはその生き方は違っていても、永い世をかけてどんな縁で結ばれていたかも知れないのです。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」わが父、わが母だけではない、だから念仏を私ごとに使ってはならない。だから親鸞聖人も、自分の親も視野に入れて念仏もうしながら、「いそぎ仏になりて」「有縁を度すべき」道を求めて、念仏していかれたのです。経典の中に「供養」の意味として「よく聴くことを供という」とあったのを思い出しています。また、聞法供養という言葉も聞いたことがあります。世間でも聞き上手ということがありますが、経典の読誦に耳を傾けながら、「いのちの根」から、静かに語りかけている声なき声に、耳を傾けて下さい。お経はお釈迦さまの説教です。「お経はなんのためにあげてもらうのですか」という問いは、問いそのものが問違っています。「あげる」のではなく「どういただくのですか」にならねばなりません。この私がお経から、なにを聞かしてもらうのですか、という問いに心を深められることをお願いします。
(松井慧光・「南御堂」もしもし相談室より)

▼今年のお盆に向けて東本願寺から発行された『亡き方の声に耳を澄ませて―僧侶30人のお盆のはなし―』に私の文章が掲載されました。この時も東本願寺参拝接待所の言葉から書かせて頂きました。参考にはならないと思いますがここに転載させて頂きます。

お盆になると全国各地でお墓にお参りし、亡き人と向き合う場が開かれます。亡き人の墓前に手を合わせ、亡き人を案じるその姿は誠に美しいものです。さて、真宗本廟(東本願寺)参拝接侍所には「亡き人を案ずる私が亡き人から案ぜられている」という言葉が書かれています。これは一体どういうことなのでしょうか。そのことを如実に教えてくれるような次の詩にであいました。

「先生、いつも元気だね」ってぼくが言ったら、「そうでもないよ」って先生が言った。ぼくは、「だっていつも元気そうに教室に入ってくるじゃない」って言ったら、先生は、「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、みんな、かなしくなるでしょう」って言っていた。そうだね。ぼくも、元気な先生が好き。わらうとぽっちゃりする先生のほっぺたかわいい。でも、むり しなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる。
(神奈川県・小2・秋本ゆうき)『ユーモア詩集』日本作文の会編

この詩を読むたびに感じるのです。ああ、違っていた…と。何か世の中がひっくり返るような思いがします。「先生がかなしそうに、おはようって、入ってきたら、みんな、かなしくなるでしょう」と元気にがんばる先生が反対にもっと自然で確かな声で「でも、むりしなくていいよ。たいへんなときは、ぼくが、てつだってあげる」と、実はその子から案じられているのです。亡き人と私の関係もきっとこうなんだと思うのです。いうまでもなく、この先生はとても子ども思いの優しい先生です。しかしそれ故に、 頑張れば頑張るほどにその子の心にであえないということがあるのです。同じように私たちもきっと、悲しいかな…、案ずれば案ずるほど、相手から案じられている世界を見失っていくのです。亡き人のためにと力めば力むほどにです。昨今の社会は、この詩の如く「先生」が「生徒」を、「大人」が「子ども」をというように、いつも「社会的強者」が「社会的弱者」に対してという方向が私たちの常識となり、ついにそれは「私」が「亡き人」を案じるという方向にまでなっています。もちろん、そのことをただ否定するのではありません。なぜなら「亡き人」とのであいはそこから始まるのですから。しかし、案じるということである限りは、亡き人と水平にであうということはやはりありません。宮城豆頁(しずか)先生の言葉に、

その人を亡くしてそこに持つ悲しみの深さというものは、たとえ意識しておろうとおるまいと、その人から生前 自分は多くのものを受け取っておる。その多くのものを贈られていたその大きさが悲しみの深さに比例する。
『生まれながらの願いー死の自覚が生への愛だー』宮城豆頁(しずか)著

とあります。亡き人を目の前にして私たちが悲しみというものを深く感じるのは、生前中その人から実にたくさんのものをいただいてきたからだと教えられます。生前、そして今もなおこの私を案じ続けてくださる亡き人と向き合い、水平にであうことが、このお盆に切に願われています。今、この私が手を合わせるこの時もこの場もすべて、亡き人からの贈りものなのです。


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