
戯曲『アジャセ〜理知と分別が生むもの〜』祖父江文宏作より
ダイバ
さらばだ、アジャセ。おまえの心は悪を積み上げて正義を生み出すには弱すぎたのだ! 俺は、俺の道を行く! たとえそれが、地獄への道であろうと。(寂しく笑って)俺は地獄の底でも必ず星のように輝いてみせる! 釈迦を思い出すたびに、俺を思い出せ。釈迦の対局に必ず俺は居る。人間至上の悪として光に対する闇としてだ! 覚えておけ、俺ほどに釈迦を愛した者はいない。俺ほどに釈迦に憧れた者もいない。これから先もだ。アジャセ、行け!釈迦の涅槃が追っている。弱いおまえを救えるのは、俺ではない。釈迦だ!慙愧の心を持ち釈迦の前に脆け。それが、俺にはできなかったことだ。
アジャセ
(叫ぶ)ダイバ尊者!
アジャセ
ギバ! わしは父上を殺してしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。わしも生きながら地獄に落ちる。(苦痛に泣く)ギバ、助けてくれ!
ギバ(暖かく)大王、あなたを救えるのは世尊だけです。あなたこそ救われねばならないのです。いまこそ釈迦牟尼世尊のもとへ。世尊は、いま、クシナガラの沙羅双樹の林で大王をお待ちです。
アジャセ
できん。それはできん。わしの手は汚れている。わしはダイバと手を結び、父上や、罪無き民を殺し、世尊に害を為してきた。
ギバ
だからこそです! 大王、いましかないのです! 世尊は、まもなく涅槃に入られます。最後の説法の目当ては大王、あなたなのです
天の声
行け、アジャセ! 世尊のもとへ行け! 仏世尊、世を去らねば、誰がおまえを救う!
アジャセ
あなたは! 父上、父上!
提婆尊者(だいばそんじゃ)

▼子どもの頃大好きだった 愛の戦士レインボーマン(上画像 1972年10月〜1973年9月)というヒーロー番組がありました。変身の時には『仏説観無量寿経』と『仏説阿弥陀経』にもある無上覚の「阿耨多羅三藐三菩提」を唱えるのです。そしてさらに印象的だったのは主題歌の次の歌詞でした。
インドの山奥で 修行して ダイバダッタの 魂やどし
▼私は子どもなりにダイバダッタはお釈迦さんを恨み、仇にしていたのに「ダイバダッタの魂やどし」はおかしいなあ?と感じていました。また、ダイバダッタにそそのかされたマガダ国のアジャセ王子は父であるビンバシャラ王を殺害します。そして母であるイダイケ妃までも幽閉し殺害しょうとします。これは一般的に『仏説観無量 寿経』の「王舎城の悲劇」※1と言われますが、その後アジャセは自身の罪を深く痛む慚愧の心の中、ギバ大臣の勧告により釋尊のもとに赴き救われていきます。
▼親鸞聖人はこのアジャセの救 いをとても大切にされ、著作の『教行信証』の信巻にも丁寧に展開されています。そしてまた同時に『浄土和讃』ではダイバダッタを提婆尊者と敬っておられます。
(下画像 真宗高田派専修寺蔵)
『浄土和讃』親鸞聖人(真宗聖典483・第二版578頁)

▼私はアジャセをそそのかし、二人での邪悪な野望を企てるダイバダッタに対しては悪逆のイメージしかなく、ましては「提婆尊者」とは頂けるはずもありませんでした。
▼しかし1994年10月『アジャセ〜理知と分別が生むもの〜』祖父江文宏作という戯曲に出会い、こんな私にまったく違う角度を当ててくださいました。クライマックスのダイバダッタとアジャセとギバ大臣のセリフが今も心に響いています。それが表紙の言葉です。
▼また、この戯曲の副題は「理知と分別が生むもの」ですが、同じ書籍に書かれてあるダイバダッタに対する文章を次に掲載させて頂きます。
浄土真宗という浄土教の一番の根っこに、私は「王舎城の悲劇」といわれる物語を思い浮かべます。この中に書かれた、ビンバシャラ王、そしてイダイケという夫婦。その間に生まれてきたアジャセ、釈尊とその釈尊のいとこであるダイバダッタ。こういう人たちが織りなす人間の暴力の問題です。その根底にあるのは、親鸞聖人はダイバのことをダイバ尊者と言われます。なぜ尊者だったんだろうと、僕はずっと思い続けてきました。虐待の事例に出会い、暴力の事例に出会っていくときに、初めて親鸞聖人が尊者と呼ばれた意味がわかったように思いました。暴力は理知の果ての行為だからです。おそらく親鸞聖人は理知というものに頼り、自分を生きていく。そのときに理知やそれから理性、人間性。そう言われるものに力点をおいて生きようとし、いわば頭脳で生きようとなさった。そのときにどうしても超えられないものとして、私は暴力の問題があったように思います。ダイバ尊者におそらく親鸞聖人はそれを被らせてごらんになったんじゃないか。そういうことを虐待という問題にぶち当たり思います。暴力は人間性を失ったからではありません。人間が理知によって生きようとするから生まれるのです。そのときに、その暴力から解放することができるのは何なのか。このことが多分、次の時代を切り拓いていく大きな大きな大きな鍵になるというふうに思います。
▼表紙の戯曲の中でダイバダッタの「対局」というセリフがあります。実はこの戯曲を鑑賞した時は発音が同じなので、たいきょくは「対極」であるとすっかり思い込んでいました。しかし『悲しみに身を添わせて』※1には、たいきょくは「対極」ではなく「対局」と書いてあり、それは向かい合うことから始まる「対局」の言葉がとても大切だと感じました。
▼私は正直、子どもの頃から釈尊は〇、ダイバダッタは×のイメージで、二人は一番遠い所にいると思っていました。それならやはり「対極」の関係しか見えてきません。しかしそうでななく、戯曲を作られた祖父江文宏さんは釋尊とダイバダッタを「対局」と表現されています。それはダイバダッタに親鸞聖人のおおせである
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
『歎異抄』(真宗聖典634・第二版776頁)
を見たのではないでしょうか。そのような現実に誰もが生きて在るからこそ、それぞれの人生でもって仏法を荘厳する尊者(諸仏)として頂かれているように思います。
※1
王舎城の悲劇『現代の聖典』東本願寺発行

※2
先の文章とこの戯曲の台本の全文は『悲しみに身を添わせて』祖父江文宏著(上画像)に掲載されています。浄願寺文庫にありますのでぜひお読みください。
▼2月24日ウクライナ侵攻が始まって4年、1日も早い戦争の終結を望むばかりです。そして3月11日午後2時46分、東日本大震災から節目の15年を迎えます。今年も「忘れない。あの日から、そしてこれからも。」と十方衆生のいのちに憶念させて頂きます。南無阿弥陀仏
▼先の戯曲の中でも当然、アジャセが母のイダイケを殺害しょうとする場面はありますが、「旃陀羅」という言葉はありません。(ご報告まで)
▼レインボーマンの歌詞と親鸞聖人の『提婆尊者』は同じかどうかは分かりませんが?子どもの頃の私にまずここから問いをくださったのは確かです。やはりまた、祖父江文宏さんが語る「暴力からの解放の鍵」についてお話し合いがしたいと思います。