■第3席


 私たちの日ごろの生活は「南無・思い通り」です。しかし、どうもそれだけではなさそうです。そのことを先ほどの四コマ漫画や絵本から考えさせていただいたと思います。どうもそれだけではないものについては、四席目、五席目で展開できたらと思います。今席は、私たちが現代こういう時代に共通して、南無(頼りと)していることについて考えてみたいと思います。
 
 こんな話があります。世界各国から色んな人が集まって豪華客船の旅行に出かけましたが、途中で事故に遭ってしまいます。このままでは間もなく船が沈んでしまいます。楽しいはずの旅が急変して、パニック状態です。そうすると男たちがあっというまに、救命ボートを全部占領してしまいました。
 それで船長さんは困るわけです。何故なら、船長さんというのは、一人でも多くの人の命を救うことが一番の任務ですから、やっぱり男の人は最期まで一緒に頑張って欲しいのです。とりあえずは、女の方、お年寄り、そして子どもを先に救命ボートに乗せたい。だから船長さんは救命ボートを譲ってもらうために説得にかかりました。
 本当に命が懸かれば、こんな説得なんか聞かないと思いますが…、一つの話ですので。ただ、この話は世界各国の人たちが、一体何を大事にしているかということを表しています。
 見れば、イギリス人の男たちがボートを占領しています。船長さんはこんなふうに説得しました。

「こういう緊急事態では、この船はレディーファーストです。女の人が先なんです。あなた方イギリス人はジェントルマンじゃないのですか」と。イギリス人というのは、レディーファースト、やっぱり女性が先なんです。ジェントルマンというのは紳士という意味で、それらの言葉を出されるとイギリス人は弱いようです。だからイギリス人はボートから降りました。
 
 次は、ドイツ人です。船長さんはこんなふうに説得しました。

「こういう緊急事態では、救命ボートは女の人やお年寄りそして子どもたちが先です。これがこの船のルールです。あなた方ドイツ人はルールを守っていただけないのですか。
と。ドイツ人は、ルールという言葉に弱いようです。だからドイツ人はボートから降りました。

 次は、アメリカ人です。船長さんはこんなふうに説得しました。
 
「ねえ皆さん、こういう緊急事態の中、今、救命ボートを譲ってくださったら、皆様は間違いなくヒーローです。国中のヒーローですよ。どうですか譲っていただけないでしょうか」
と。アメリカ人は「ヒーロー」という言葉に弱いようです。だからアメリカ人はボートから降りました。

 なんかこれアメリカ人が怒ってきそうですよね。
 それと話にはなかったんですが、北朝鮮の人に説得するんでしたら、どうですかね。金正日(キム・ジョンイル)の名前を出したら一発ですよね。
 
 さて、日本人です。船長さんはこんなふうに説得しました 

「皆さん見てください、イギリス人も、ドイツ人も、アメリカ人も北朝鮮人も、みんなボートから降りましたよ。どうします?」
と。日本人の一番弱い言葉は「みんながしている」です。だから日本人はボートから降りました。
 
 この話はそれぞれ旨いこと言い当てていると思いませんか。そうですよね。今、私たちが一番弱いのは「みんながしている」です。「南無・みんながしている」です。私もまたそうなんですよ。息子が私にゲームソフト等、おもちゃを買わす時の殺し文句は、「友達みんな持ってるでー」です。やっぱりこの言葉には、とても弱いんです。

 しかし、どうでしょうか、みんながしている…、ここには「私」はありません。これは、何も無いということです。

 昔、親鸞聖人の教えに生きる者に対して、こういう言葉がありました。

「真宗門徒、もの忌(い)みしらず」

略して「門徒もの知らず」です。真宗門徒といわれる、親鸞聖人の教えに生きる者は、物忌みをしなかったということです。
「もの忌み」というのは、迷信である日の良し悪しや方角から、星座占いや血液型占いに至るまで、どうもそうらしいから私もするということであり、まさに、みんながしている、です。 
 
 迷信の中のひとつに、姓名判断というのがあります。画数で人生が決まるはずありません。そのことである門徒さんからこんな言葉を聞かせていただきました。

「ご院さん、今度若い者が赤ちゃんもらうんや(※湖北では赤ちゃんの誕生を、もらうと言います)あんた怒るかもしれんけど、息子が名前見てもろてきょったんや。赤ちゃんが男の子やったらこの名前かこの名前。女の子やったらこの名前かこの名前。これらの名前は画数が良いらしいわ。素晴らしい未来が約束されているんやて」

と。ここまででしたら、よくある話ですが、そのご門徒さんがね、その後、こう言われたんです。

「ご院さんでも、ワシ思うんやけどなあ、姓名判断する人、占い師がね、そんな先の未来までわかるんやったら、今度生まれてくる子が、男の子か女の子かということはわからんのやろか」

そうですよね。そんな遠い未来まで占えるのに、まもなく生まれるその子が男の子か女の子かということはわからないのです。そんなもんです。ただ、少しでも子どものことを思うとき、見てもらうのは、親心で、それを否定することは出来ませんが…、でもやっぱり、みんながしている、それに従っているのです。

「真宗門徒、もの忌(い)み知らず」

そういう生き方をしなかった人たちがいらっしゃったんです。もの忌み知らずという生き方、お念仏に生きた人たちは、決して変わり者ということじゃなくって、親鸞聖人の教えにつねに聞いておられた、ということがあると思うんです。親鸞聖人は、

「鬼神(きじん)に事(つか)うることあたわず。」(聖典三九八)

と言われます。鬼神というのは、どこか外に存在する恐ろしいものではなく、私たちが限りなく内から生み出してくるものです。
 親鸞聖人は、人間はみんながしている、そんな、もの忌みにつかえる必要などない、自分を生きよと教えられます。
 

 そうは言っても、私も、わざわざ迷信に逆らわなくても、みんながしているというところに入っていれば、安心だし、まあ罪もないやん…と言いそうですけど、ある一冊の本との出会いでですね「あっ、違うんだな」ってことを思いました。私たちが安易にみんながしているということで生きることが、いかに罪があるか、罪が深いかということを、私のようなタイプの人間に鋭く教えてくださる絵本です。
 みんながしている、この言葉を頭において読みたいと思います。

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ここでの「あの子」を、踏みつけていくのは、いつだって、みんながしているということで生きている私たちだと思います。子どもの世界のいじめから、大人社会の差別にいたるまで、絵本の中の「みんなが ゆうててん」です。
 
 このような、私たちのような生き方ではない、真宗門徒とよばれた人たちって、ずっと昔に、どこか遠い所に居られたのでしょうか。

 私が湖北へ来た頃、ここらの人たちの徹底した振る舞いに驚いたことです。皆さんもそうですが、今日もこの本堂へ入られた時、まず合掌ですよね。それから挨拶です。挨拶よりも、絶対に合掌が先です。これは大変なことだと思うんです。大阪は大体、そんなわけにいきません。やっぱり挨拶が先です。「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」です…。
 法事参りでもそうですよね。向こうがお内佛(仏壇)としたら、目の前に当家の主人が居ても、「南無阿弥陀仏」とお内佛の方にまず、合掌です。それから、当家の主人に「今日はお逮夜に参らせてもらいました」と挨拶が後ですよね。
 これは特に大切に伝えていきたい、お作法だと思います。そして、そこに流れる精神というのは、挨拶等、世間で大事にしていることよりも、手を合わせていくこと、南無することを持っていたという生き方から生まれてきたものだと思います。もの忌みという、みんながしていることで動いている世間をきちんと問う眼を持っておられたんだと思います。
 どうでしょうか、真宗門徒とよばれた人たちって、そんな昔にじゃなく、遠くにじゃなく、この土地に居られたんだと思います。

 最後にこれだけ申し上げたいと思います。同朋の「朋」という字ですね、これは、貝殻が二つ吊されている象形文字です。貝殻というのは、一番、値打ちのあることを表しています。だから、値打ちのある者、かけがえのない者として、人と人とが、向かい合うということが同朋の精神です。親鸞聖人の値う(もうあう)という表現がありますよね。

 先の絵本の中に

「あの子とはなしてみたら ええやん。」

とあります。私とあの子、一人の人間の話を聞く、一人の人間と真向かいになる。これが同朋ということです。 
 一人の人間と真向かいになることを奪い続ける、みんながしているという生き方。そんな私たちは、限りなく同朋の精神を失っているということです。
 そのことの回復を願いとするのが「真宗門徒一人もなし」からはじまった同朋会運動だと思います。
 
 今席は、「南無・みんながしている」ということの問題性について考えさせていただきました。そのことが挨拶よりも先に合掌するという作法の度に、問われいるよう思います。
 ようこそお参りくださいました。

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