■第4席


 いきなり、音楽の話なんですけども、楽譜、五線譜がありますよね。私は音楽は大好きなんですけど、カラオケ専門ですので楽譜は読めません、お経より歌の方が得意なんですが…。その五線譜の上に記号があります。Vはブレスといって、これは息つぎです。これから言うのはfとpの記号のことです。fというのはフォルテと呼び、強くということです。だから普通はfがあれば大きな声と思いますよね。逆に、pというのはピアノと呼び、弱くということです。だから普通はpがあれば小さな声と思いますよね。それが以外にも、東京教区の「サンガ」という機関紙、2004年9月号の季節風の欄に、フォルテとピアノよりさらに弱いピアニッシモとをくらべて、こんなふうに書いてありました。

「ピアニッシモはフォルテよりも強いんです」と語った声楽家は、キョトンとした私を見て、さらに言葉を続けた。「ごく弱く」(※極めて弱くということです)を指示する演奏記号のピアニッシモが、「強く」を意味するフォルテよりなぜ強いのか

私達も同様に反対ではないのかと首を傾げると思うのです。それに対して、その声楽家は、

「例えば、本当に苦しいときや、強い愛を伝えるときは、大声で『苦しい!』『愛してる!』と言うより、絞り出すような表現になるでしょう? 心の底から込み上げて来るような思いは、強くてもそれが深くて重いほど、大きな声にはならないですから」。だから単に小音ではないピアニッシモはとても難しいのだと。

こう言われます。確かに、本当に苦しい時は、呻くようになります。心の底から込み上げて来るような思いは、それが深くて重いほど、大きな声になりません。「ピアニッシモはフォルテよりも強いんです」という言葉通りです。人間というのは、逆なんですね。これは、非常に面白いなあと思います。また、この声楽家は、強い愛もそうだと言われますが、それについては、思い出す詩があります。

恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

相手を愛する気持ちが深くて重いほど、声にならない…、そのことを鳴かぬ蛍と重ねているのです。やっぱりこういう詩が今日まで人の世に伝わってくるのです。それ以外に、「ごめんなさい」もそうだと思います。どうでしょう、本当に悪かったと思う時は、

「ごめんなさい」

ってなかなか言えません。

「悪かったわ、反省している」

と言えるのは、まだ余裕があるんです。本当に謝ってません。昨日(第4席)、「あの子」という絵本を読みましたけど、いじめられた子に、よく、大人が言うことは、

「助けて」ってなんで言ってくれなかったのか。「お母さん助けて」「先生助けて」と言ってくれたら私達はもっと色んな事を考えて、少しでも事前に防ぐことが出来たかもしれないのに。

しかし、子供達はこう言います。

「助けてが言えたらどんなに楽か…」

本当に苦しいほど、助けてと言えないのです。その一言が…。やはり、こういう声も、それが深くて重いほど声にならない。何か、人間って、全部逆なんですよね。だからそのことを踏まえて、「サンガ」の文章はこのように締めくくられています。

難しいのは表現だけではない。聞き取るのも然り。「大きな声」が、微かな声々を抹殺する如く掻き消していく現代。声にならない心の叫び・魂の叫びに、私たちはどれだけ耳を傾けているのだろうか。

全くその通りだと思います。そして、実は、

「本当に願っていること」

これも同じことが言えるのかもしれません。私達が本当に願っていることも、それが深くて重いほど、大きな声にはならないのです。ただただ、小手先の願い事ばっかりが大きな声でフォルテして、それが私だと思い込んでいるのではないでしょうか。そのことは、親鸞聖人が教行信証の中で抑えてくださっています。これは真宗聖典お持ちでしたら、220頁の後ろから2行目です。やはり真宗聖典というのは、一冊持っていただくことは大事だと思います。和田稠先生は、クリスチャンでバイブルを持っていない人はあまりいないと仰るんです。私達が仏教、真宗の教えを学ぶにあたって、真宗聖典を持っていないというのはどうか?と思います。そこに、
 
善心微(み)なるがゆえに、白道のごとしと喩う。

という親鸞聖人の言葉があります。白道とは清浄願往生の心です。人間には、貪瞋二河の欲望の底に、求道心があるといわれます。微とは「かすか」という意味ですが、宮城 豈頁(みやぎしずか)先生は「生まれながらの願い」という書物の中でこんなふうに述べられています。

 微とは、全体の中でちょっぴりということではなくて、確かにあるということ。私の意識よりももっと深いところに根ざしている心。人間には、生まれてからの願いの底に、生まれながらの願いがある。

 仏教では、この生まれながらの願いをアーラヤ識といいます。私達は日ごろのこころのその底に、微なんだけれどもある。そう、深くて重いほど微なんです。仲野良俊先生はこんなふうに仰っています。
 
私自身と私の根性とは全然違います。私の根性というのは、何度も言いますように、損が嫌いで得が好きで、苦労がいやで楽がほしいという心です。これはもう正直な私の根性です。

「私の根性」これは昨日から考えている「南無・思い通り」です。宮城先生の「生まれてからの願い」です。仲野良俊先生は続けてこう言われます。

しかし私自身は違う。私自身は、よくよく考えてみたら、意味のあることなら、やりがいのあることなら損してもいいというものがあるはずです。どうですみなさん方、もう絶対に損は嫌いですか。(中略)やりがいのあることなら苦労してもいい、それが本当のあなたじゃないですか。それが私自身です。根性と私自身とをすり違えているから、事がこんがらがっているわけです。つまり自分を見失って生きているのです。そうでしょう。他人のことは知りません。あなた方、自分自身の胸に手をおいて考えてもらえばいい。我々は、どうかすると根性と私自身とを取り違えているのではないですか。そうすると、根性だけが私だと思っていますから、最期まで私自身にお目にかからずに死んでしまう。とんでもないことだと思います。お念仏の道というものは私が私に遇う道だと思います。お念仏がないと、根性にまぎれて、ついに本当の自分というものを見失って生きていく。

『仲野良俊著作集』の中に出てくる言葉です。仲野先生は「私の根性」のその底に「私自身」があると力強く語られます。宮城先生の「生まれながらの願い」です。また、北陸という土地で一代、農業を営みながら念仏に生きられた北村金次郎さんもこのように言われます。

安田先生な、こうもおっしゃった。「人間は二度生まれる」と。「最初は父母から生まれて迷うとる。もうひとつ、法から生まれる世界がある。それがほんとの自分です」と。われわりゃ、子どものときゃ、ほんとの自己自身やったんやけど、三歳ぐらいから、自我が王さまになってしもうたがや。自我が自己に蓋しとる。自我の下に自己がいつもおる。おるけど顔だせんのやね。鉄板みたいもんやもん。自我を破ってくれるもんな、如来の智慧にあうしかない。その、ほんとの自分に遇えんさけ苦しいがやね。自我を自分やと思うとる。」   
『生命の大地に根を下ろし〜親鸞の声を聞いた人たち〜』松本梶丸著より
 
 子どものとき、三才ぐらいまでは、自己自身やったとありますが、そのことで私は、息子とのことを思い出すのです。息子が三才ぐらいの時、恐竜に夢中でした。ですから、いつもたくさんの恐竜のマスコット人形を並べて遊んでいました。子どもというのは、同じ目線で、何か会話をしてますよね。ある時、私がこの中でどれが一番好きかと聞いたんです。すると、一番はひとつだと思い込んでいる私に予想外の答えが返ってきました。

「ティラノザウルス」と「プテラノドン」と「トリケラトプス」と「イグアノドン」と「ブロントザウルス」と「ステゴザウルス」と…

息子は、そこいる全部の恐竜の名前を言うんですよ。ナンバーワンとオンリーワンという言葉がありますが、ナンバーワンはどれかと聞く私に、みんなオンリーワンだと答える息子は、なんて素敵な世界を生きているのか…と思い知らされました。自我が王さまになってしまった大人の私は、すっかり、そんな世界を見失っているのですよね。どうでしょうか、実は、私たちが本当に求めているのは、こういう世界ではないでのしょうか。北村金次郎さんは、「自我」と「自己」という言葉で教えてくださいます。今、

「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」

という清沢満之先生の言葉を思い出すことです。

「生まれてからの願い」から「生まれながらの願い」
「日頃のこころ(意識)」から「アーラヤ識」
「私の根性」から「私自身」
「自我」から「自己」

色々な言葉で教えられる、本当の願いについて、いよいよ、最後の席でお話させて頂きたいと思います。ようこそお参りくださいました。

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