テーマ 悪人成仏(221座) 

2022(令和4)年8月1日


 

表紙

●浄願寺御遠忌法要余剰金による設備改善事業として

 

▲本堂入口にスロープが設置されました。

 

▲本堂に火災防止パッケージ型消火器が設置されました。

 

住職記

悪人成仏

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
『歎異抄』(真宗聖典627頁)
 
■これは善人が救われるなら悪人はなおさらであるという親鸞聖人のとても大切な教えです。
■しかし昔から、この悪人成仏は下の「二軒の家」のような例え話で聞かされてきました。善人・悪人というのは、そんな人がどこかに存在するのではなく、それはどこまでも自覚の言葉であり、何よりも私自身の内省を教えるのです…と大体こんな結末なのです。ところが宮城豆頁(しずか)先生も語られていますが、悪人成仏はそんな個々の心がけの教えだけではなかったのです。
■そもそも、親鸞聖人は「善人」を逆説的に「よきひと」と抑えられ、簡潔かつ明確に表現されています。自身の著書の中で次のようにです。

「富貴」は、とめるひと、よきひとという。
『唯信鈔文意』親鸞聖人(真宗聖典551頁)

しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人というは、かしこくよきひとなり。
『唯信鈔文意』親鸞聖人(真宗聖典557頁)

■親鸞聖人は心の問題よりも(勿論それも大事でしょうが)それ以上に現実にある社会の差別構造を言い当てています。つまり善人は実際に社会に存在する体制(支配)側の「とめる」「かしこく」の強者を指します。反対に悪人は、実際に社会に存在する反体制(被支配)側の弱者を指します。そしてさらに親鸞聖人は「しかればわれらは善人にもあらず」と言い切られ、弱者の屠沽の下類である悪人こそ「われら」として生きられました。同じ著書の中で次のようにです。

屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。

(中略)

りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。
『唯信鈔文意』親鸞聖人(真宗聖典553頁)

■重ねて親鸞聖人の時代から「旃陀羅」にも触れ、悪人成仏のことが書かれた次の文章を掲載させて頂きます。

親鸞の時代には実は、差別を受けている人々が悪人だといって差別されていたんです。親鸞と同じ時代に、『塵袋』という百科事典がありまして、その中に「エタ」というのは何なのかということを書いた文章があります。これは差別される人々に対する言葉として、今もなお残っておりますが、今の被差別部落というのは、近世以後つくられるわけですが、これは鎌倉時代ですから、だいぶ前になります。

(中略)

「エタ」という言葉がでてくるいちばん古いものは、親鸞と同時代の『塵袋』といいますが、そこにはね、こんないいかたをしています。「栴陀羅」というのは、お経にでて、とにかく悪人として使われるのですが、実はインドに現実に存在した人々で、差別を受けていた人々で「チャンダーラ」といわれたんですね。それをお経では栴陀羅という漢字で書いているんですが、この栴陀羅というのは、

1、屠殺を業とする人 
2、「エタ」みたいな悪人だと、

こういういいかたをしています。

(中略)

親鸞がこの『歎異抄』でいう悪人というのは、被差別者に通じるんですが、ただ被差別者のことをいっただけではないんです。被差別者だけではなくてそれ以外のすべての人々、それ以外の人々もすべてね、やはり被差別者が生きているその姿、つまり、真の平等を求め、熱烈に阿弥陀仏を求める、そして人間を 勦ることがなんであるかを知っており、そして自力に走ることのない、そういう被差別者のおかれている状態ですね。これをみて親鸞は、人間の生きていく本来の姿を見いだしたのではないか、というふうに思うんです。
『歎異抄をよむ』河田光夫著

■何よりも仏教は平等を説きますが、河田光夫さんが言われるように弱者である悪人こそが「真の平等を求め、熱烈に阿弥陀仏を求める」のです。しかし対照的に、強者である善人にとっては社会の差別構造こそが好都合であり、平等などは少しもありがたくないのです。自力をたのむ善人にとっては、「真の平等を求め、熱烈に阿弥陀仏を求める」ことは終にはないのです。最後、阿弥陀仏の悲願を『歎異抄』は次のように結ばれています。

願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。 よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
『歎異抄』(真宗聖典627頁〜628頁)

 

編集後記

▼この度のスロープ(表紙参照)の完成は本当に嬉しいことです。ありがとうございました。長浜教区からの長年の発信「寺を開く」の言葉とも重なります。

▼下の宮城豆頁(しずか)先生先生のお話(1999年6月27日於満立寺様)は刺激的で今も心に強く残っています。実は私こそ、善人の家と悪人の家は…というそんな例え話で聞いてきたひとりです。そもそも、人は我執よりも法執によっていよいよ迷うのです。

▼同朋新聞7月号(東本願寺発行)に宗務総長演説(要旨)の中の「是旃陀羅」について、

小森龍邦先生からは 経典からの削除を求めているのではなく、「その言葉」の読まれる側の痛みを知ってほしいという問いかけを一貫して頂戴しました。

とあり、確かに「その言葉」からの痛みである問いかけは頂戴しましたが、

小森龍邦先生からは 経典からの削除を求めているのではなく、

という表現に対しては断じて異議を唱えます。水平社宣言に語句訂正を加えられた小森龍邦さんは、東本願寺に対して「その言葉」の削除も視野に入れて、徹底的な検討と善処を要請された人です。親鸞聖人を心から敬う小森龍邦さんも、その根本にある社会の差別構造を問いかけておられると思います。

▼今あらためて自問したいと思います。さて私は善人なのか、悪人なのか。

※東本願寺は旃陀羅は「栴」を「旃」で統一しています。

 

「二軒の家」(善人の家と悪人の家)

▲Aさん 善人の家

 

▲Bさん 悪人の家

 

Aさんの家はけんかばっかりしてるというんです。親子げんか、夫婦げんか、兄弟げんか、朝から晩までけんかが絶えない。ところがBさんの家はみんなが仲良く、和やかに暮らしておると。ある日、Aさんの家のおばあさんが、Bさんの家のおばあさんに聞いたそうです。「なんであんたところは、そうやって皆仲良くやっていけるんだろう。なんでうちはこんなにけんかばっかりするんだろう」と。そしたら、Bの家のおばあさんが「あんたところはみんな善人ばっかりだから、けんかが絶えないんだ。うちは悪人ばっかりだから、和やかに暮らしていけるんだ」とこう答えたというんですね。で、何のことだと聞いたら、あんたとこは部屋を歩いていてやかんを蹴飛ばしたら、「誰や、こんなところにやかんを置いておいたのは」と怒る、置いておいた方は「下を向いて歩け」と。お互いに自分が悪いんじやない、相手が悪いんですね。お互い自分は間違ってない、間違ってるのはおまえだ、というところでけんかが絶えないんだと。そういう粗相をしたら、「申し訳ないことをしました」と蹴飛ばした方が言う。すると、置いといた方が「いや、そこへ置いといた私が悪いんです」と言う。これで和やかになるんだと。こういう話でですね、

(中略)

これはどうなんでしょうかね。Bさんの家も気持ち悪いですよね。Bさんのお家でニコニコしておられても、腹の中わかりませんよね。私が我慢してるから、あんたはおれるんだぞとか。その点Aさんのお家は笑ってられたら間違いないんでしょう、ご機嫌よくて笑ってられるんで。Aさんの家のほうが気楽におれるかもしれませんね。まあ、Bさんの家がそんなにいいかなあと、子ども心にですね、何か疑問に思ったことが忘れられません。

(中略)

仏教の言葉で申しますと、Aさんの家は我執(がしゅう)でございますね。お互いに俺が、俺が、と主張しあっておる。我執の人の家でしょうね。Bさんは法執(ほうしゅう)でございます。私がこういうように自分をちゃんと押さえておるからうまくいっているんだと。自分のしておることの、どこまでも教えの如く生きておるんだけれども、その教えに生きておるということに深く執着しておると。悪人として常に頭を下げて生きております、とそのことを握りしめて離さんのが法執でございます。
『満立寺同朋のつどい』真宗門徒の生活に自信を持とう 命の尊さを念じて                    
講述 宮城豆頁(しずか)氏

 

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