テーマ 報恩講に思う 〜日ごろのこころにては、往生かなうべからず〜(3号)

1994(平成6)年11月1日


表紙

被害者が真にたすかるとき
加害者がたすけられる。
加害者を救うものは
被害者である。
さて 私は
被害者であるか
加害者であるか。

『終わりなき歩みを共に』和田稠著より

住職記

■秋もどんどん深まり報恩講の季節になり、今一度、親鸞の教えに出会っていくご縁を大切にしたいものです。親鸞の言葉に、

「日ごろのこころにては、往生かなうべからず」(歎異抄第十八章)


とあります。私は平常の悪い心では往生はできないと、まあこんなふうに軽く流していたのですが、玉光順正先生の本を読み、強く感銘を受けたので、ここにその中の文を紹介したいと思います。

或るお寺の掲示板に標語のようなものが書かれていまして、そこに「日常の五心」ということが書かれていました。日常的に大事な五つの心ということが書いてあるわけなんです。それにはどういうふうに書いてあるかというと、

  はいという素直な心
  すみませんという反省の心
  おかげさまという謙虚な心
  私がしますという奉仕の心
  ありがとうという感謝の心

こういう五つの心というのが書いてありまして、それは全国的にこれは大事な心なんだと、日常はそういう心でもって生活すればこの世の中はうまくいくんだと、恐らくそういうことだろうと思うんですね。素直とか反省とか謙虚とか奉仕とか感謝というそういう心が大事なんだと、こういうふうに言われるわけです。そういうことを聞いていますと、実際私たちもついついそうだなあと思わんわけでもないわけですね。素直な心というようなことは大事だなあというようなことを思うわけです。反省するということも大事だし、謙虚であるということも大事だし、奉仕するということも大事だし、感謝するということも大事だ。宗教というものはそういうふうなことを教えるものだろうとさえ考えておるわけです。
 私はそういう言葉を見ていましてふと変なことを考えたんです。それはどういうことかといいますと、こういう言葉というのは実は上下関係の中で非常に有効な言葉であると。上下関係の中で非常に有効な言葉であるということに気がついたといいますか、あれっと思ったわけですね。例えば素直な心というようなことを私たちが非常にいいことだなあと思っているのは、自分が使う場合です。反省ということでもそうですね。素直になりなさいとか反省しなさいという使い方。謙虚でありなさいとか。ところが使われる方はたまったもんでないんではないかなあと思うんですね。例えば子供なんかには、素直な子供になりなさい、お母さんなんか百人おれば百人が、自分の子供にどんな子供がいい子供ですかと聞くと、素直な子供と書くという、そういうアンケートがあったのですけれども、そういう時に素直ということが、もちろん厳密にはいろんな問題はあると思うんですが、一般的に使われる場合どうしても親の言うことに素直であったりすることになる。或いは先生が子供に反省させる。子供が逆に先生に反省しなさいと言うたりしたら腹が立つ。こういう言葉というのは、実は逆に、下と上というのは変ですが、いつも使われる側が逆に使ったら、常に使っとる側は腹が立つ言葉ばっかりです。素直とか反省とか謙虚とか奉仕とか感謝とか、みんなそうですね。そういうことを私はまあ、ふっと思ったわけです。
 ちょっとついでに申しますと、かつて藤尾という文部大臣で無茶苦茶いうてやめて、相変らず無茶苦茶いうている人がいますけれども、あの人が文部大臣になった時に、「今文部行政で何か大事か」という質問に「しつけが大事だ」と。学校などで色々な問題があるときにどういうことが技けておるかというたときに、それは「しつけなんだ」と、一言でいうたわけですね。聞いとる方はついついなるほどなあというようなことを思うわけですが、このしつけというのも実はめんどうなものでして、私たちがしつけが大事やと考えたとたんにそれはいつでもしつける側に立っとるからそういうふうに思うんですね。しつけられる側にもし立ったら、たまったもんでないですね。ですけども私たちはついつい、そういうことはしつけが大事だと言うたら、ああそうやなあと、こういうふうに思ってしまうように育てられておるというか、育っておる。常にしつける側が正しいようなしつけとはまさに「おしつけ」以外の何ものでもないわけですが。
 そういうことが親鸞のいう「日ごろの心」のあり方だと、私は思っておるわけです。明らかにその時に「日常の五心」、日常的に大切な五つの心と言われるのは、それは文字通り「日ごろの心」ですね。ですけれども親鸞の場合は、日ごろの心ではいきいきと生きることができないと、こういうふうに言っておるんだと。そういうことで私は自分でびっくりしたというか、改めて親鸞の言うておることの内容というのは大変なことを言うておるなあというようなことに気付きはじめたわけです。

『聖書と親鸞の読み方』ルベン・アビト 玉光順正著より

■例えば、白は何でも染まるから花嫁に白無垢を着せるというのも、
いつもしつける側に立って、
しつけられる側の花嫁を自分たちの色に染めようとしているのです。
私たちが日ごろのこころにおいて、何気なくしていることの中に、
実に危ないことがいっぱいあり、
そういうことが、女性差別、またあらゆる差別を生み出すのだと思います。
社会的弱者はあきらめろという具合いに、
矛盾に満ちた世の中の仕組みを作り固めているのです。

■表紙の言葉も、そのことを問題提起しているのではないでしょうか。

さて 私は
被害者であるか
加害者であるか。

どちらも共に救われていく道を求めた親鸞の言葉に訊ねていきたいと、報恩講に思います。

「日ごろのこころにては、往生かなうべからず」

あとがき

あらためて、いつも、しつける側に立って、「おしつけ」ばかりしている自分が知らされます。
もしかしたら、僧侶(自分)は、罪なことに、
社会的強者を益々、守っていくような説教ばかりしているのかもしれません…。


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