テーマ 死の問題にぶつかる(2号)

1994(平成6)年8月1日


表紙

無明ということですから何も解らない、真実が何も解らない愚かな在り方を無明、無明の闇と表現するんだと思いますけれども、無明ということは何も解らないというのじゃないんでございます。そうではなくて逆に解ったことにしている暗さであります。
人間を一番真実から遠ざけるものは解っておるとしている意識だと。
『共に生きるということ』宮城 豈頁(みやぎしずか)著より

住職記

去る7月6日、長浜別院での暁天講座で「死の問題にぶつかる」という講題を頂き、お話をさせていただきました。話の内容は次の通りです。
 
■死の問題を通して私達の生が問われている。
それはずばり、
人間は何のために生きているのかということである。
それに対して例えば、
「人間は幸せをつかむために生きている」と言う人がいる。
それなら、幸せって何だろうか。
夢、お金、健康、名誉……、どうもすっきりしない。
つかむという具合いの、何か外側のものでは真の満足はないように思う。

■あるいは、小賢しく「結局、娑婆はこんなもんだ」と、
こんな言葉をお互いに口にする。
しかし、そんなふうに解ったことにするのはやめようと思う。
どういうわけか、大人になるほど答を出したがるけれど。

■こんな話がある。
「雪がとけると何になりますか?」
大人は答える。「水になる」。
「川はどうして上から下に流れるのだろう?」
大人は答える。「それは重力があるからだ」。
でも、子どもの言葉に
「雪がとけると春になる」。
「上から下に流れるのは、きっと川も生きているからだね」。とある。

人間は何のために生きているのか。

極めて深い人間としてのこの問いに、こんな大人の頭で答を出すのではなく、
子どものような柔らかさでたずねていたいと思う。

あとがき

▼こんな時代社会を生きる私たちは、
「問う」ということが出来なくなるのは当然のことかもしれません。
なぜなら、現代は、学校でも会社でも、
正確な「答」をいかに速く出すかが求められているからです…。


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