テーマ いただこう、あわせる掌のぬくもりを(95座)

2010(平成22)年6月1日


表紙

「あなた、幾つになられました」
「私も、はや七十になりました」
「七十ですか。前途洋々でございますね」
 お茶の用意をしながら、聞くともなしに聞いていたのですが、そのときはただ、すでに九十一歳を迎えておられる曽我先生が、七十歳の大河内先生に向かって、
 ああそれなら、この私の歳までまだ二十年もありますね。それはそれは、前途洋々ですね
とおっしゃっている、何とまあスケールの大きな話だなと思っただけでした。
 しかし、近ごろになって、そんなみみっちい話ではなかったのでないか、曽我先生は大河内先生に、歳とともに、これからいよいよあなたも広く大きな世界に出遇ってゆかれるのですね、とおっしゃっていたのではなかったのか、そう思うようになってきました。
 歳をとるとともに、しだいしだいに、自分の力の衰えを感じることが多くなってきます。歳をとるということは、今まで何でもなくできたことがひとつひとつできなくなり、断念させられてゆくことです。それまでは自分の力で生きてきたと自負していたが、その実、いかに多くの力に支えられ生かされていたかということを知らされてくる、広く大きな世界との出遇いがこれからいよいよはじまるのですね、とそのことを「前途洋々」とおっしゃったのではないか、そう思うようになりました。

『和讃に学ぶ 浄土和讃』宮城豆頁(みやぎしずか)著より

住職記

いただこう、あわせる掌のぬくもりを

■これは宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌、長浜教区スローガンです。あわせる掌、つまり、合掌ですが、そのことから今一度思い起こされる「右手と左手」という文章があります。                           
一郎君の手が言いました。「僕は右手です。僕はいつも役に立っています。ごはんを食べる時にお箸を使うのも、勉強する時鉛筆を持つのも、工作の時間に小刀を使うのも僕です。大事な仕事は皆、僕がやるんです。左手はいつも楽をしていますが、僕は働き者です。」おとなしい左手は黙って聞いていました。ある日、一郎君は、自転車で走っていて転んでしまいました。アッと思った時には、すりむいた左手から血が流れていました。病院へ行くと先生は、傷口を縫ってからぐるぐると、包帯をして下さいました。一郎君はその晩、「痛い痛い」と言いながら、寝苦しい夜を過ごしました。次の朝、顔を洗おうとしましたが、うまくゆきません。水をすくっても片手では、いつもの半分もすくえないのです。服を着るにも時間が倍もかかってしまいました。ごはんを食べる時には左手がお茶碗を持ってくれないものですから、ボロボロとこぼしました。包帯をしたまま学校へ行って勉強が始まりました。鉛筆で字を書くのは僕だと思っていた右手ですが今日はうまく書けません。左手がノートを押さえてくれないからなのです。工作の時間には彫刻をすることになりました。右手は小刀を使えるのですが、左手が彫る板を押さえてくれないものですからどうにもなりません。何でも出来ると思っていた右手は、左手が助けてくれなかったらこんなに困るとは、思いもしませんでした。自分だけでは半分の仕事も出来ないのです。いつも黙って僕を助けてくれていた左手に、えらそうなことを言っていて、悪かったなあと思いました。白い包帯をぐるぐる巻かれてじっとしている左手を撫でながら、右手は言いました。「ごめんよ。いつも君をばかにして。」
『ほとけの子』青柳田鶴子著より

■様々な左手に支えられている、それが事実であるのに、そのことを忘れて生きる私もまた、右手そのものであると痛感しています。
■よくご紹介しますが、一休さんのこのような言葉があります。

生まれ子が 
次第次第に知恵つきて 
仏に遠くなるぞ悲しき

■「生まれ子」は、ただ泣くだけで、自分では何も出来ません。まわりの人たちにすべてをゆだねて、合掌の如く左手とひとつになって生きているのです。それはまさに「仏」であると一休さんはいわれます。
■そもそも、人は皆そうゆう者として生まれてきたはずなのに、3才ぐらいから「次第次第に知恵つきて」どんどん左手から離れていくのでしょう。そのぬくもりを失って、右手のように生き始めるのです。「悲しき」です。
■今、そんな私に、表紙の言葉が響いてきます。人としての生涯は、「生まれ子」に帰っていく歩みであると教えてくださいます。

編集後記

▼右手と左手の関係、これは右手が左手に対して、

「助けてくれてありがとう」

という次元のことではないと思います。それなら、右手の方が偉いのですよね。上司から部下に言うような言葉です。そうではありません。
▼まず、私(右手)が居て、そして左手という関係ではなく、この私とは、無数のいのち(左手)の集合体なのです。そのことを仏教は「無量寿」という言葉で教えます。

しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。
※いとけなき=幼き
『安心決定鈔』(真宗聖典959頁)


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